大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

岐阜地方裁判所 昭和36年(わ)66号 判決 1963年3月12日

被告人 星山信一こと裴甲錚 外四名

主文

被告人裴甲錚、同川本一晃、同原貴久男を各懲役一年に、同内藤忠康を懲役二年六月に処する。

未決勾留日数中被告人裴甲錚に対しては右刑期に満つるまで、同内藤忠康に対しては三五〇日を右本刑に算入する。

訴訟費用中証人上川秀夫、同永井朗逸、同奥村忍、同近松実、同衣斐礼司に支給した分は被告人裴甲錚、同川本一晃、同原貴久男、同内藤忠康の連帯負担とし、証人後藤勇、同河合十五平、同安藤一夫、同長村正幸、同岡田つゆ子、同隅沢一実、同岩田静郎に支給した分は被告人内藤忠康の負担とする。

被告人裴甲錚、同権聖奉に対する昭和三六年三月一五日付起訴にかかる強盗の公訴事実については右被告人両名はいずれも無罪。

理由

(罪となるべき事実)

第一、被告人内藤忠康は

一、昭和三五年五月八日の朝、当時内縁の妻であつた松原喜代子より同女がその前夜キヤバレー、ムーランルージユのボーイ今村武男(当時二一年)と情交関係を結んだことを聞知するや、後藤勇と共謀の上、同日午後五時過頃、岐阜市柳ヶ瀬通五丁目一八番地所在右キヤバレー、ムーランルュージユ入口附近に右今村を呼び出し同所において、「お前が今村か、俺のおつかあをとつて何だ、これから俺達と一緒に来い」等と怒鳴りつけ、矢庭に手拳で同人の顔面を殴打し、更に倒れた同人の腰部等を足蹴りにする等の暴行を加え、よつて同人に治療五日間を要する頭部、顔面打撲症並びに右前膊部擦過症等の傷害を負わせ、

二、右暴行により右今村が畏怖しているのに乗じ、同人より慰藉料名下に金員を喝取せんことを企て、右後藤勇外一名と共謀の上、同日午後七時頃、同市金宝町三丁目一番地高橋保三方二階の当時同被告人の居室に右今村を連行し、同所において、同人に対し「人のおつかあに手を出しやがつてどうしてくれる。お前みたいな奴は柳ヶ瀬を歩けないようにしてやる。慰藉料として三〇、〇〇〇円出せ等と」脅迫し、金員を喝取しようとしたが、同人がこれを履行しなかつたためその目的を遂げず、

第二、被告人裴甲錚、同川本一晃、同内藤忠康、同原貴久男は氏名不詳の者一〇数名と共謀の上、同年八月二一日午後二時一〇分頃、同市神田町七丁目一一番地道路上において、折柄同所で被告人らが所謂「デンスケ賭博」を開帳中であることを現認した岐阜中警察署勤務警部補吉田清一、同巡査部長和田武雄、同巡査安藤秀逸、同安達武、同河田市郎、同矢島喜久男、同本多鉦司らが賭博及び道路交通取締法違反の現行犯人として被告人らを逮捕せんとするや右逮捕を免れるため、同警部補らに対し、手拳をもつて殴打し、突き倒し、更に足蹴にする等の暴行を加え、よつてその職務の執行を妨害し、その際右暴行により右和田武雄に対して治療約一〇日間を要する両前膊部、左手挫傷、擦過傷、項部挫傷の、同安藤秀逸に対し治療約七日間を要する右第二、三指、左拇指挫傷の、同安達武に対し治療約七日間を要する胸部、背部、腰部、挫傷、擦過傷の、同河田市郎に対し治療約七日間を要する頸部、右第二、三指挫傷、擦過傷の、同矢島喜久男に対し治療約一〇日間を要する右肘部、下唇、胸部左足挫傷の、同本多鉦司に対し治療約七日間を要する頭部、右手、左膝車下腿挫傷の各傷害を負わし、

第三、被告人内藤忠康は氏名不詳の者数名と共謀の上、昭和三六年二月一二日午前一一時頃、岐阜県羽島郡笠松町金池町地内名鉄笠松駅構内下りホームにおいて、折柄同ホーム下り北側のベンチに腰掛けて電車待合せ中の岡田つゆ子(当時四一年)に所謂「デンスケ賭博」と称する賭博の相手方となるように話しかけた上、相手になろうとしない同女を取囲んで交々「当らなかつたから金を出せ」等と申し向け、被告人内藤において、同被告人らの気勢に恐れて次第に横すざりしながら立上つた同女の片腕を掴み、その場にあつたポプラの木に押しつける等の暴行を加え、よつて同女が右被告人らの所為を畏怖し困惑しているのに乗じ、他の共犯者において同女が所持していた手提袋内より同女の所有にかかる現金五〇〇〇円在中の革製蟇口一個を奪取し、以つてこれを喝取し

たものである。

(証拠の標目)(略)

(累犯となる前科)

被告人川本一晃は(一)昭和三二年七月三一日岐阜簡易裁判所において窃盗罪により懲役一年五年間執行猶予の刑に処せられたが、同三四年三月六日右執行猶予が取消されて、同三五年八月五日右刑の執行をうけ終り、(二)同三三年七月一八日岐阜地方裁判所において恐喝罪により懲役六月に処せられ、同三四年八月五日その刑の執行をうけ終つたものであることは検察事務官作成の前科調書によつて明らかである。

(被告人裴甲錚の判示第二の事実に対する正当防衛の主張に対する判断)

同被告人は判示第二の賭博開張には何ら関係なく、偶々同所を通りかゝつた際、吉田清一外六名の警察官が右現場に飛び込んで来たが、同警察官らはいずれも私服であつたので暴力団風の男達の殴り込みと誤信し、身の危険を感じて逃走しようとすると、内一名より自己の腕を掴まれ、逆に捻じ上げられた為突嗟に自己の身を防衛するためその男の拇指を捻り上げた旨主張する。

よつて按ずるのに、判示第二の事実認定に供した各証拠を綜合すれば、右現場におけるデンスケ賭博は同被告人を首魁とするグループによつて開張されていたものであり、同被告人は右開張現場より約一〇米離れた位置にいたが、それは見張りと右グループ員の看視を兼ねていたものと認められる、のみならず、右グループの中には右警察官らに面識の者があつたため、警察官らが二台の自動車に分乗して現場に到着后飛び出すと同時頃に、見張りの誰かゞ「ヤク、ヤク」(警察官の手入れの意味)と叫んだため、右グループ全員が逸早く逃走しようとしたこと、及び一方警察官らも「警察の者だ」と叫びながら逮捕に着手しようとし、逮捕に伴う実力行使中も「警察の者だ」ということを叫んでいたことを容易に認定できる。右事実によれば同被告人が立つていた位置から考え、右「ヤク」或いは「警察の者だ」という声は当然同被告人にも聞えていると考えるのが相当である。更に右警察官の中司法巡査本多鉦司、同安藤秀逸は共に同被告人と右グループの一員である小川智二を逮捕すべく「警察の者だ、現行犯で逮捕する、来い」等と言いながら右両名に接近するや同被告人及び右小川は「何で行かなならん、馬鹿野郎」とか「来るか、馬鹿野郎」とか罵声を浴びせながら、約三〇米余賭博開張現場より離れた露路上まで後退し、同所で同被告人の腰のあたりに組み付いた右司法巡査安藤秀逸の左手を掴み左手拇指を力一杯捻じ上げたものであることが認められるので、この段階においてもなお同被告人が安藤秀逸らが警察官であることの認識がなかつたとは到底考えられないところであり、その余の点について論ずるまでもなく右被告人の主張は採用し難い。

(法令の適用)

被告人内藤忠康の判示第一の一の所為は刑法第二〇四条、第六〇条罰金等臨時措置法第三条、第二条に、第一の二の所為は刑法第二四九条第一項、第二五〇条第六〇条に、被告人裴甲錚、同川本一晃、同内藤忠康、同原貴久男の第二の所為中公務執行妨害の点は同法第九五条第一項、第六〇条に、傷害の点は同法第二〇四条、第六〇条罰金等臨時措置法第三条、第二条に、被告人内藤忠康の第三の所為は同法第二四九条第一項、第六〇条に各該当するところ、判示第二の各司法警察職員に対する公務執行妨害の所為と傷害の所為は一個の行為にして数個の罪名に触れる場合であるから同法第五四条前段第一〇条に則りいずれも重い傷害罪の刑に従うこととして、その所定刑中懲役刑を選択し、被告人裴甲錚、同原貴久男、同川本一晃については右各傷害の所為は同法第四五条前段の併合罪であるから同法第四七条本文第一〇条に則り最も重い和田武雄に対する傷害罪の刑に法定の加重をなし、その刑期範囲内で被告人裴甲錚、同原貴久男を各懲役一年に処し、被告人川本一晃についてはなお前示前科があるので同法第五六条第一項第五七条に則り更に同法第一四条の制限に従い累犯の加重をなした刑期範囲内で同被告人を懲役一年に処し、被告人内藤については判示各罪は同法第四五条前段の併合罪であるので同法第四七条本文第一〇条に則り最も重い判示第三の罪の刑に法定の加重をなした刑期範囲内で同被告人を懲役二年六月に処する。未決勾留日数の算入については、同法第二一条に則り被告人裴甲錚に対しては昭和三六年三月一五日以後の未決勾留日数中右刑期に満つるまで、(同被告人に対する公務執行妨害傷害事件の未決勾留日数及び強盗事件の同日以前の未決勾留日数はこれを算入しない)被告人内藤忠康に対しては三五〇日を右本刑に算入する。訴訟費用の負担につき刑事訴訟法第一八一条第一項本文、第一八二条に則り証人上川秀夫、同永井朗逸、同奥村忍、同近松実、同衣斐礼司に支給した分は被告人裴甲錚、同川本一晃、同原貴久男、同内藤忠康の連帯負担とし、証人後藤勇、同河合十五平、同安藤一夫、同長村正幸、同岡田つゆ子、同隅沢一美、同岩田静郎に支給した分は被告人内藤忠康の負担とする。

被告人裴甲錚、同権聖奉に対する昭和三六年三月一五日付起訴にかかる強盗の公訴事実については、後記の如く結局犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法第三三六条後段に則り無罪

(被告人裴甲錚、同権聖奉に対する昭和三六年三月一五日付起訴にかかる公訴事実に対する判断)

右公訴事実の要旨は「被告人裴、同権、同内藤の三名は氏名不詳者数名と共謀の上、昭和三六年二月一二日午前十一時頃、羽島郡笠松町金池町内名鉄笠松駅構内下りホームにおいて、折柄電車待合せ中の岡田つゆ子(当四一年)に所謂「デンスケ賭博」と称する相手方となるように話しかけた上、相手になろうとしない同女を取囲んで威圧を加え一方的に「当らなかつたから金を出せ」と交々に申し向け、同女の腕をつかみ、抑えつける等の暴行を加えてその反抗を抑圧し、同女が所持していた手提袋内より同女所有に係る現金五〇〇〇円在中の革製蟇口一個を強取したものである」と謂うのである。

よつて以下按ずるに

岡田つゆ子の検察官に対する供述調書(昭36・2・22付、昭36・2・26付)二通、証人岡田つゆ子の証人尋問調書(昭36・7・15付、昭37・6・18付)二通によれば、同女が右日時、右場所において判示第三認定の如く数名の男に取囲まれ結局現金五、〇〇〇円在中の革製蟇口一個を奪取されたことは、右犯人らの所為が強盗罪を構成するか、恐喝罪を以て問擬すべきかは兎も角、これを容易に認定し得るところである。

しかして右犯人の中に被告人裴、同権がいたことを裏付ける証拠は本件記録を通じ、結局右岡田つゆ子の右各調書、隅沢一美の検察官に対する供述調書証人隅沢一義の証人尋問調書、岩田静郎の検察官に対する供述調書しか存在しないので、これら証拠を当公判廷において取調べた他の証拠と比較検討するときは以下述べるように右証拠のみによつて右犯人らの中に被告人裴、同権が存在していたと断定するには可成りの躊躇を感ぜざるを得ない。

第一、そこで先ずこれら証拠の価値判断をなす前提として、同人らが如何なる供述をなしているかを要約するに、

一、岡田つゆ子の供述について、

(一) 時刻の点について

岡田つゆ子は昭和三六年二月一二日朝岐阜市下川手にある佐合産婦人科病院に診察をうくべく、名鉄新名古屋駅を新岐阜駅行急行電車に乗車して発ち、午前一〇時五〇分普通電車に乗り替えるため笠松駅で下車、同駅下りホームの北側寄りにあつたベンチで、同駅午前一一時〇六分発下り普通電車を待ち合わせていたこと、その時は既に竹鼻線ホームに竹鼻線電車は入つており、同電車が発車して間もなく犯人らがデンスケ賭博を同女にすすめ、同女の前あたりに立ちふさがりだしたこと、その後判示第三認定の如き経過があつて、同女は同駅午前一一時〇六分発の下り普通電車に乗車し同駅を発つたこと等についは、同女の供述は検察官に対する当初の供述(昭36・2・22付)以来一貫しその間供述自体に何らの矛盾はない。

(二) 犯行及び犯人の認人の認識の点について

イ、同女は当初検察官に対する昭36・2・22付供述調書においては、被告人権が権同女の横に腰かけてさかんにデンスケ賭博の相手となるようにすすめたが、同女がこれに応じないでいる内にパシン、パシンという音がしたと思うと、前に立つていた二、三人の男が「当つた、当つた」と言い、被告人裴がうつむいて腰かけている同女の膝の上に一、〇〇〇円札一枚を載せた。同女がそれをはね除け次第にベンチ北側にいざつて逃げなければと思わず立上つた時又パシンと音がし、男達が口々に「今度は当らなんだ、さあ金を出せ」等と言い出し、被告人内藤より腕を掴まれ傍のポプラの木に押しつけられた。その時前に被告人裴がその横に矢野清一が居たがその他の者の顔は判らなかつた。同女の抗議に構わず、右矢野が同女の所持していた手提袋の一端を掴んで動かないようにし、被告人裴が両手でその口を披げて中から現金五、〇〇〇円在中の蟇口を取り出した旨(特に右矢野が手提袋の下を掴んで動かないようにし、被告人裴がその中より蟇口を取り出したことは絶対間違いない旨強調している)。その後被告人裴の合図によつて犯人らは皆散つていつた、その際同女が「どうしてこんなことを……」と抗議すると被告人権が「馬鹿野郎」と同女に馬声を浴びせかけた旨、そこに丁度午前一一時〇六分発の電車が来、同女は犯人の内一名より後ろから押されて電車の中に押し込まれたが、車中で同女の前に矢野清一が居て手に一、〇〇〇円札を三〇枚位持つていた旨述べ、犯人らの写真を示され、被告人裴、同権、同内藤及び矢野が犯人らの中にいたことは間違いない旨確認している。

ロ、次で同女の検察官に対する昭36・2・28付調書においては

岐阜中警察署で警察官が取調中の被告人裴、同内藤をそれぞれ二、三分宛面通した結果、被告人裴が蟇口を取つた人であり、被告人内藤が同女の腕を掴んで押しつけた人であることは一〇〇パーセント間違いない旨羽島警察署で取調中の被告人権、矢野清一をそれぞれ五分位面通しした結果、最初賭博の相手となるようすすめたのは被告人権に一〇〇パーセン間違いないが、矢野は実物を見ると眉が少し下り過ぎている感じて絶対間違いないとまでは断言できない旨述べ、前の供述に比し重要な点につき一部供述が変つている。

ハ、更に証人としての供述においては

昭36・7・15の証言では、賭博の相手となるようすすめたのは被告人権であり、一、〇〇〇円札を膝の上に載せたのは被告人裴であり、腕を掴み押しつけたのは被告人内藤である旨、ポプラの木に押しつけられている時、二本の手が出て来て手提袋を引張り、被告人裴が同女の蟇口を手に持つているのを見た、同女が折柄入つて来た前記電車に乗せられた時、被告人権が「馬鹿野郎」と言つて何処かに去つたので特に被告人権は覚えている旨電車に乗つてから矢野は確実に見たと思うが、被告人裴は見ていない旨述べ、写真を示されての犯人の指示と、実物の面通しの結果の相異については検察官に対する右昭36・2・28付調書と同様の供述をなし、なお補足的に当初犯人らの写真を示されたのは犯行の翌日である二月一三日である。矢野について断言できないのは瞬間の出来ごとでありよく顔を見ていなかつたからだが、被告人ら三名については絶対間違いない旨強調している。

昭37・6・18の証言でも大体において検察官に対する供述調書前回の証言と同一内容の供述であるが、ただ蟇口を取り出した人は誰であつたか記憶にない旨。電車の中で同女の前に一、〇〇〇円札を三〇枚位持つていた人は写真では矢野と思つたが面通しの結果少し違うので被告人裴だと思う旨証言し、あらためて被告人三名を含む一八名の写真を示され、躊躇することなく被告人三名の写真を指示している。右の点の相異にも拘らず、同証言は同女が被害をうけた日より一年四月余を経過した後であり且同女としては努めて右事件のことを忘れようとしているのであるから、その供述に多々記憶がない旨或いは若干記憶違のでてくることは已むを得ないものと言うべく、大筋においてそれまでの供述と大して矛盾があるものとは思われない。

以上の同女の各供述について、当初手提袋を掴んでいた者、電車の中で同女の前で一、〇〇〇円札を三〇枚程持つていたものは矢野清一に絶対間違いない旨断言しながら後に至つて矢野の存在については確信が持てないと供述しだしたところに、同女の記憶の正確さに若干の疑問を挾まざるを得ない。

二、岩田静郎の供述について、

同人は昭和三六年二月一二日と同月一四日、いずれも午前八時三〇分より翌日午前八時三〇分までの間笠松駅に助役として勤務していたものであるが、

(一) 同人の検察官に対する供述調書(昭36・3・8付)においては、同人は二月一二日午前一〇時三〇分頃の上り電車でデンスケの連中が来るのを見た。昔、家が近所で、学校も同じであつたのでよく知つている被告人裴が踏切を渡つて来たので判つた。その時同被告人と一緒に来たのは被告人権、矢野清一、河本某外六、七名であつた旨、その後三、四〇分後女の人の被害申出があつたが、その時は先程見たデンスケの連中はいなかつた旨供述し、被告人内藤については同人を見たことはあるが、それが午前であつたか午後であつたか記憶しない旨附言している。

(二) ところが証人としての供述(昭36・6・7)においては、午前中にデンスケの連中が来ていたことは知らなかつたが、女の人の被害申出があつて始めて先程デンスケ連中が来ていたなと思い出した。しかしその時のメンバーは電車の発着時間に気をとられていたので判らない。午前一〇時三〇分頃上り電車でデンスケの連中が踏切を渡つて来たかどうか気付かなかつた旨供述し、更に検察官に対する供述の際写真を示され、目撃したデンスケのメンバーとして顔を指示したのは見たような気がしたからで確信があつた訳ではなく、被告人裴は当日は見ていない。検察官に対する供述の中で同日被告人裴を見たと述べておればそれは間違いである旨述べて、前記検察官に対する供述調書と全く実質的に異る供述をなすに至つている。

三、隅沢一美の供述について

同人は昭和三六年二月一二日午前八時三〇分頃より笠松駅の運転室で勤務していた者であるが、

(一) 同人の検察官に対する供述調書(昭36・2・22付)においては、同日午前一一時〇六分笠松駅発下り電車の到着直前頃、竹鼻線到着電車の入替作業のため運転室を出たところ、被告人裴をちらつとみたのでデンスケが来ているなと思つた、その後午前一一時五〇分頃岡田つゆ子よりデンスケ賭博の被害にかかつた旨聞いたが、それから更に午後一時二八分同駅着の上り電車で被告人及び河本が降りてくるのを見たので警察に電話してから、用便のため便所に行くと、被告人裴の合図で河本がついて来たので、同人に注意したところ、同人は「もう直ぐ行くで頼む」等と云つて出て行ったが、その真後頃又男の人がデンスケの被害にかかつた旨の申出をうけた旨供述し、

(二) 証人としての供述(昭36・5・18)においては

岡田より被害申出があるまでは、特にデンスケの連中が来ていることに気付かなかつたが、右被害申出があつて、始めて午前一〇時三〇分頃竹鼻線の入替作業のため運転室を出たときに被告人裴を見たことを思い出した。他の連中については記憶しない旨、昼から見たのは被告人裴、河本、服部、尾崎、矢野、梅村らであるが、便所について来て同人と話したのは被告人裴の合図できた河本に相異ない旨、被告人権は午前中はみていない、被告人内藤も午前中は憶えない旨供述し、写真九葉を示され、被告人三名はよく知つている旨述べたに拘らず害物を示されるや被告人裴、同内藤については間違いなく指示したが、被告人権については見たことがない旨供述するに至つた。

第二、そこで岡田つゆ子が被害にかかつた時刻を正確に検討するのに、同女が当日午前一〇時五〇分笠松駅に到着し、午前一一時〇六分同駅出発下り電車に乗車したことは同女の前記各供述のほか名鉄笠松駅札掛野田安雄作成の時刻表によつても明らかであるから、犯行は右午前一〇時五〇分より午前一一時〇六分までの間に行われたことになるが、同女が犯人らにデンスケ賭博の相手となるようにすすめられたのは竹鼻線の電車が発車した直後頃であるところ同駅々長の牛田広の被告人裴宛手紙による回答書(昭37・5・16付)によるとの、右竹鼻線電車の発車時刻は午前一〇時五六分であることが認められる。だとすれば犯人らは遅くも同時刻前には笠松駅に到着しておらねばならない。そこで新岐阜駅より笠松駅までの電車による所要時間及び新岐阜駅発上り電車の時刻を調べてみるのに、前記時刻表及び捜査報告書(昭36・2・28付)によれば、新岐阜駅より笠松駅までの右所要時間は急行で七分、普通で一〇分であり(特急が笠松駅に停車しないことは当裁判所に顕著である)、犯人らが右午前一〇時五六分までに笠松駅に到着するためには遅くも新岐阜駅発午前一〇時三一分の急行電車か、午前一〇時三二分の普通電車に乗車せねばならないこととなる。

第三、そこで前記の如く岡田つゆ子が犯人に絶対間違いない旨指摘されている被告人裴が右時刻に新岐阜駅に到着し得たか否かについて検討してみるのに、

一、同被告人の内妻である松葉くに子、及び同被告人の実弟である裴玄錚の各供述(各供述調書及び当公判廷における供述を含めて)は暫く措き、先に証人渡辺桂一の供述、同人の検察官並びに司法警察員に対する各供述調書を綜合すると、同人は岐阜市千手堂中町一ノ二五千手堂病院に通勤する医師であるが、昭和三六年二月五日同被告人を疑似赤痢の疑いで往診して以来、二月六日より同月一五日までは同被告人が右病院に通つて診察をうけていたこと、右病院の診察開始時刻については、同人は大体午前九時一〇分前後頃右病院に来て、当直日誌、外来患者の状況を調べてから患者の診察を始めるので、大体午前九時一五分乃至同時二〇分頃から診察を始めることが多いこと、同被告人の来診時刻は大体何日も午前一〇時頃であり、初めの内一度洋服姿だつたがその他は丹前姿であつたこと、二月一二日は被告人は最初より七番目の患者であり、当時は冬でもあり患者一人当りの診察所要時間は一〇分乃至一五分位であること、被告人の当日の診察所要時間は五分乃至一〇分位であることが認められる。尤も診察開始時刻については同人は検察官並びに司法警察員に対する供述調書においては大体午前九時から始めることになつているが患者次第で午前九時三〇分頃から始まることもあり判明しない旨供述し、証人としては右認定の如く供述しているので必ずしも一致していないが、早くとも午前九時前より診察を開始しないことは明らかであり、通勤の医師として病院に朝来た時は宿直日誌外来患者の状況を調べてから診察を開始するであろうことは容易に推認し得るところであるから、右認定の如く通常午前九時一五分乃至九時二〇分頃から診察を始めるが、患者次第で午前九時三〇分頃より始めることもあると解するのが相当である。

右認定の事実に徴すれば、二月一二日午前九時一五分に診察が開始されたとし乙患者一人当り診察所要時間を一〇分とすると被告人の診察が終るのは午前一〇時二〇分より同時二五分までの間、午前九時二〇分に診察が開始されれば午前一〇時二五分より同時三〇分までということになり、患者一人当り診察所要時間を一五分とすると、診察開始時刻が午前九時一五分ならば被告人の診察が終るのは午前一〇時五〇分より同時五五分までの間午前九時二〇分診察開始ならば午前一〇時五五分より午前一一時までの間ということになることは計数上明らかである。

二、そこで更に右病院より同被告人宅までの所要時間、同被告人宅より市電千手堂電停前までの所要時間、同電停より新岐阜駅までの市電による所要時間について調べると、捜査報告書(昭36・2・28付)よれば、右病院より同被告人宅まで徒歩で約四分、被告人宅より右電停まで徒歩で約一〇分、同電停より新岐阜駅まで市電で約八分(以上合計約二二分)であることが認められる。だとすると被告人が新岐阜駅を前記午前一〇時三一分或いは一〇時三二分発の電車に乗るためには、同被告人は右病院を午前一〇時九分乃至同時一〇分より前には診察を終えて帰途についておらねばならないことになるがそれが認定し難いこと前述のとおりである。仮りに同被告人が市電を利用せずタクシーを利用したとしても、被告人が自宅に戻り洋服に着替える時間、タクシーを待つ時間等を考慮すれば、やはり午前一〇時三二分までに新岐阜駅に到着することは先ず不可能というべきである。

三、この点について同被告人は司法警察員に対する昭36・2・27付の供述調書では二月一二日は午前一〇時から一〇時三〇分までの間に病院に行き午前一一時頃帰宅した旨、昭36・3・1付の供述調書では同日は午前一〇時頃から出掛け診察をうけて帰つてきたが、帰宅時間はまちまちで覚えない旨、検察官に対する昭36・3・10付の供述調書では何日も大体時計が一〇時を打つてから出掛けたが診察が終る時間はまちまちであつた旨供述し、公判廷においては、同日は時計が午前一〇時を打つてから出掛け、帰宅したのは午前一〇時三〇分頃であつたと述べ、必ずしもその供述が一貫している訳ではない。しかし午前一〇時頃より自宅を出て病院に行つた点については一致しているし右病院までの所要時間約四分を考慮すれば前記渡辺桂一の述べるところと縷々符合するものがあるというべきである。

尤も同被告人の内妻松葉くに子は検察官に対する供述調書(昭36・3・15付)において、同被告人は何日も病院には午前九時乃至九時三〇分までの間に出掛け、帰りはまちまちで一五分位で帰る時も三〇分位かかる時もあつた。二月一二日も午前九時過ぎに病院に出掛けた旨供述し、(証人としては午前一〇時一寸前大体午前九時四五分頃出掛け午前一一時頃帰宅した旨供述している)同被告人の実弟裴玄錚は検察官に対する供述調書(昭36・3・14付)において、同被告人は二月一二日は午前九時一寸過ぎに出掛け、三〇分位で帰宅した旨供述し(証人としては同日午前一〇時一寸前に出掛け、午前一〇時三〇分頃帰宅した旨供述している)ているけれども、右両調書は、いずれも渡辺桂一の述べるところと三〇分から六〇分の違いがあるのみならず、二月一二日に限つて言及すれば、前記認定の事実に徴し、右裴玄錚が検察官に述べている午時九時三〇分頃被告人が帰宅できる筈がなく、右供述調書は遽く措信できず、又右松葉くに子の検察官に対する供述調書もこれをもつて前記認定を覆すことは到底出来ないというべきである。

第四、なお被告人裴が本件犯行を敢行していたかどうか疑問を抱かせる証拠として被告人内藤の検察官に対する供述調書(昭36・3・37付)及び同被告人の第五回公判廷における供述記載昭36・2・12付司法巡査後藤十郎作成の捜査報告書、及び、被告人裴がなした運転手募集の新聞広告の件に言及せねばならない。

一、被告人内藤は後述の如く右検察官調書及び第五回公判廷で、いずれも本件が強取であることを除き本件所為を自白しているのであるが、その供述内容を見ても矢野及びその仲間である河本らと行つたもので、被告人裴、被告人権は一緒ではなかつた旨供述している。

二、本件犯行に際して行われたデンスケ賭博の方法が煙草を使用して行う所謂「モヤ返し」の方法ではなく、菓子玉を使用して行う所謂「シカ割リ」の方法であつたことは、岡田つゆ子の前記供述によつて明らかなところであるが、被告人裴を首魁とするデンスケグループが従来右「シカ割り」の方法によるデンスケ賭博を開張していたことを認めるに足りる何らの証拠もなく、却つて矢野を首魁とするデンスケグループが右「シカ割り」の方法によるデンス賭博を開張していたことは被告人ら三名の強調するところである(被告人内藤同権は当公判廷においてその旨供述しているところであるし、被告人裴は逮捕された昭和三六年二月二四日同趣旨のことを強認していたことは警部補清水芳一作成の捜査報告書によつて窺うことができる)のみならず昭和三六年二月一二日付司法巡査後藤新十郎作成の捜査報告書によれば、同巡査は、同巡査は同日午前九時四五分頃新岐阜駅タクシー待合所附近において矢野、河本らが「シカ割り」の方法によるデンスケ賭博を開張していたことを現認していることから明らかである。

三、更に被告人は二月五日から病気になつたので、伯父星山善治と相談の上、二月一日購入し自己が運転していたダンプカーの運転手を新聞広告で募集することとし、同募集の面接場所は自宅で、面接年月日は昭和三六年二月一一日と一二日の午前九時より午後五時までであつたから、当日は前記病院に行つた以外は外出していない旨弁解している。

しかして昭和三六年二月二七日付捜査報告書添付の昭和三六年二月一〇日付東海夕刊によれば、その求人広告欄に全く同被告人の右供述と一致した広告を見出すことが出来るのであつて、被告人が募集に応ずる運転手に面接するため当日右病院に行つた外は外出していない旨の弁解も一概に排斥することはできない。

第五、そこで当初述べた岡つゆ子、隅沢一美、岩田静郎の各供述についてその信憑力を検討してみる。

一、岡田つゆ子は終始被告人裴、同権、同内藤が犯人の一部であることは間違いない旨断言するけれども、同女の前記証言によれば、同女は当時、子宮筋腫の手術後の経過が良くなく、佐合産婦人科病院に診察をうけに行く途中であつたが、熱は三八度位あり、出血多量で当日も笠松駅のペンチに腰かけていた時も出血していて血が足の方に流れる様な有様であり、頭が重く、自分の体を全くもて余していた肉体的精神的状態下にあり、更に熱のため寒く、襟巻を頭から顔の横まですつぽり蔽り、幅の広い防寒コートの襟を立ててベンチに腰掛けていた恰好であつたことが認めれるところであり、右の様な状態下において数人の男に取囲まれた極めて短時間の間の犯行であつてみれば、犯人の人相について凡その認識はあつたとしても、正確な認識があつたと断ずることは危険であり、同女の供述のみによつて犯人を誰々と断定することは可成りの躊躇を感ぜざるを得ない。

二、隅沢一美の供述について考えてみると、前記の如く被告人権について写真で示された時には同被告人をデンスケの仲間である旨指示しながら、実物を示されるや全く見たことがない旨供述している点に既に記憶の正確性に疑問がもたれるのみならず、検察官に対する供述調書中前記の如く、二月一二日の午後一時二八分の上り電車でデンスケグループの被告人裴と河本某が降りて来たのを見たと述べているが、河本某はもと被告人裴のデンスケグループの一員であつたがその後同被告人と仲違いして独立したデンスケグループを作つた矢野清一の仲間であることは本件記録を通じ容易に認められるところであつて、被告人裴と河本某が行動を共にすることは不自然である。このことは笠松駅の構内売店の従業員野々部紀美恵の検察官に対する供述調書(昭36・2・13付)によつても、同女は昭和三六年二月一二日午前一一時頃矢野清一と河本の二人が国駅上りホームより下りホームの方に踏切りを渡つて行つたことを現認していること及び前記司法巡査後藤新十郎がデンスケ賭博取締中二月一二日午前九時四五分頃新岐阜駅構内タクシー乗車口附近で矢野清一、河本らがデンス賭博を開張しているのを現認していることからも容易に推認され得るところである。これらの点を考え併すと隅沢一美は被告人裴と矢野清一を混同したか(両者がよく似ていることは同人も認めるところである)或いは同人が昭和三二年四月から笠松駅に勤務している関係上、本件の二月一二日までに何回も見た或る日のことと混同しているのではないかと疑問を持たざるを得ず、これ亦全幅の信頼をおくことができない。

三、岩田静郎の供述について考えてみると、同人は前記の如く証人として検察官に対する供述調書と全く異る供述をしているが、同検察官に対する供述調書によれば、二月一二日午前一〇時三〇分頃の上り電車で被告人裴、同権、矢野、河本他六、七名が降りて来るのを見た旨述べているが、右隅沢一美の供述に対する判断で述べた如く被告人裴と矢野、河本らが行動を共にすることは不自然であるのみならず、前記駅の売店従業員野々部紀美恵は前記供述調書において矢野と河本は見たが被告人裴は見ていない旨供述し、更に仮りに一緒の上り電車で笠松駅に来たのであれば、前記、司法巡査後藤新十郎が新岐阜駅で被告人裴や同権をも現認したであろうと推認されるに拘らず、同巡査が新岐阜駅で現認したのは最初午前九時四〇分頃、同駅北側待合室の西側ミユージツク、ボツクス附近で被告人内藤の他原貴久男、川本一晃、及び長谷川某であり、次で午前九時四五分頃前述の如くデンスケ賭博開張中の矢野、河本らを現認したに止ることが前記捜査報告書によつて明らかである。だとすると右岩田静郎の検察官に対する供述調書もこれ亦全幅の信頼をおくことはできないものといわなければならない。

以上述べた如く被告人裴について、他に同被告人の罪責を肯認せしめるに足りる証拠のない本件においては、同人のその余の供述(弁解)の真偽を吟味するまでもなく、結局犯罪の証明がないことに帰し、同被告人は、昭和三六年三月一五日付起訴にかかる強盗の公訴事実については無罪というべきである。

第六、被告人権についても既に述べた如く、岡田つゆ子の検察官に対する供述調書、同人の証言、隅沢一美、岩田静郎の検察官に対する各供述調書、を綜合してもこれらの証拠のみによつて同被告人が犯人の中の一人であると断定することは困難であり、他に同被告人の罪責を肯認せしめるに足りる証拠の存しない本件においては結局同被告人に対しても犯罪の証明がないことに帰し無罪というべきである。

尤も同被告人は終始当日午前中は自宅に居た旨アリバイを主張しているので、この点に附言するのに

一、被告人の内妻磯山三代子は司法巡査に対する供述調書(昭36・2・26付)司法警察員に対する供述調書(昭36・3・1付)において及び当公判廷における証人(昭36・8・25付)としていずれも同被告人のアリバイを供述し、同被告人の隣人宇佐美幸雄、同人の妻宇佐美美代子らもいずれも当公判廷における証人として同被告人のアリバイを供述している。しかしながら磯山三代子の供述についてみれば、同女は時の経過と共に当然薄らいでゆくべき記憶が益々鮮明になつて、同被告人のアリバイの事実を供述している点宇佐美美代子の供述についてみれば、同女の二回の証言(昭36・8・25公判と昭37・10・17公判)の間に可成りの点で食違いがある(その中最も重大且、明白な食違いは昭32・8・25公判においては、二月一二日午前一〇時三〇分頃炊事場附近で被告人と会い、その際同被告人に同女方のテレビ修理を依頼し、直ぐ同女宅に来て貰つたが、同被告人は、これは一寸では直らんで夜にでも直してやると言われた旨供述しているに拘らず、昭37・10・17公判では、同被告人がテレビを直しに来たのは二月一二日午前一〇時三〇分頃であり、それから午後〇時三〇分頃まで修理にかかつていた旨供述している点)上、後日の証言程明白な被告人のアリバイの事実の供述に変つている点、更に右両女が武藤電気店に依頼しアリバイ工作を行つた形跡が証人武藤勲の供述により窺われること等よりすれば、右両女の右アリバイの事実に関する供述部分は輙く採用し難いものがある。

又宇佐美幸雄の供述については二回に亘る証言(昭37・7・30と昭37・10・29)自体に左程の矛盾を認め難いが、同被告人が自己の記憶に間違いはない旨終始述べているところと符合しない点が存在するのみならず、同被告人が自ら主張しているアリバイの事実よりも遙かに明白且積極的なアリバイの事実を供述している点(このことは前記宇佐美美代子の昭37・10・17公判における証言についても同様であるが、その中最も重大且明白な点は被告人は終始二月一二日午前一〇時三〇分頃より午前一一時頃家で家族と食事したことについて詳細な供述をなし、宇佐美方のテレビ修理の点について、当公判廷で、同日朝宇佐美美代子より同人方のテレビ修理を頼まれたので、それなら夕方見ようと話し、その日遅くなつて同人方に赴いたところ宇佐美幸雄に会つたので、同人にテレビの具合はどうかと尋ねると、同人は、今電気屋を呼んでいる、今直ぐ来ると言うので待つているとのことであつたので、その儘自宅に帰つた旨供述しているのに、同人は証人として、被告人がテレビを直しに来てくれたのは午前一〇時頃で、それから午後〇時三〇分頃まで修理にかかつていた旨供述している点)等を考慮すれば、同人の供述も遽かに措信し難いものがある。

二、ところで被告人自身二月一二日の行動について供述するところは終始殆ど変るところがない。即ちその供述の要旨は、同日は午前八時三〇分頃目が覚め寝床の中からテレビの外国物番組二本とニユースを見(その番組の内容を詳細に供述している)、朝昼兼用の食事を午前一〇時三〇分頃より午前一一、〇〇時頃までの間に家族と共に摂り、その後暫く子供のお守りなどをして午後一時か二時頃パチンコをしに外に出た旨供述し、なお当公判廷において、右食事時にテレビで日本物番組の若い侍の出てくる時代劇があつていた旨述べている。

尤も、この内朝昼兼用の食事を摂つた時間にいて、同被告人の司法警察員に対する昭32・2・27付供述調書においては午前一一時頃より正午頃までと云い、同じく同日付三回供述調書においては午前一〇時三〇分頃より午前一一時頃までとなる趣旨の供述をなし、検察官に対する供述調書においては午前一一時過頃と述べ、当公判廷では午前一〇時三〇分頃より午前一一時頃までと述べていて、必ずしも終始一貫したものではないが、右時間が午前一〇時三〇分頃より午前一一時頃までであつたにせよ、午前一一時頃より正午頃までであつたにせよいずれにしてもそれが本件に重大な影響を持つことは前記本件の犯行時刻の点より明らかである。

ところで中部日本放送株式会社の羽島警察署長宛回答書(昭36・3・6付)東海テレビ放送株式会社の同署長宛回答書(昭36・3・4付)及び昭和三六年二月一二日付毎日新聞によれば、同被告人が当日朝、寝床の中より午前八時三〇分より午前九時までのジヤングル、ジムと午前九時より午前九時三〇分までのローン、レンジヤーを見たことは明らかである。

しかして同被告人がその他に見たテレビ番組は、同被告人自身その内容の詳細について述べるところがないので遽かにこれを推断することはできないが、右毎日新聞によれば同日午前一〇時三〇分より午前一一時までの間テレビ番組として「ふり袖剣法」があることが見出されるのである。尤も同被告人の供述のみを以て前記食事時に写つていたという若侍物のテレビ番組が右「ふり袖剣法」であつたと断定するには充分でないが、偶然にしよ、同被告人が右食事時にあつていたという若侍物のテレビ番組に類似したテレビ番組が午前一〇時三〇分より午前一一時までの間にあつていたことも輙くこれを看過することはできない。なお同被告人の妻磯山三代子の供述はともかく、同被告人の実子である磯山正毅の司法警察員に対する供述調書(昭36・3・1付)において、同人が午前一〇時三〇分頃外からから帰宅した時父と母(同被告人と磯山三代子のこと)が食事をしていたので、私も一緒に食事した旨供述している点も、同被告人の右供述の真偽を判断するについて一応考慮さるべき資料といわなければならない。

同被告人のアリバイについて前記の如くアリバイ工作の疑が抱かれるため些かの疑問なしとしないが、若し同被告人が自ら策動してアリバイ工作を図つたものであるとすれば、同被告人の主張しているアリバイの事実よりなお明白且積極的なアリバイの事実の証拠が当公判廷に現われた以上、同被告人が右証拠に符合するよう自己の供述を変えるであろうことは容易に考えられるところである。若しそうでなけれは自らアリバイ工作を画策した意味の大半がなくなつてしまうであろうことは想像するに難くない。しかるに同被告人自身の供述がその後においても右証拠に符合するよう変つていたことがないことからすると、仮りに前記の如きアリバイ工作がなされたとしても同被告人自らアリバイ工作をなしたものであるか否か可成の疑問があるといわなければならない。

以上述べた如く同被告人のアリバイの事実は完全に立証されたものとも認め難いが同被告人のアリバイの事実につき不明朗な動きが存在した一事を以て直ちに同被告人の供述するところが総て虚偽だとして排斥することもまた早計であるというべきである。なお且岡田つゆ子らの前記供述の信憑性がそれがために強化されるという筋合のものではないことを考えるときは、結局同被告人に対しても犯罪の証明がないものというべく、同被告人は無罪というべきである。

第七、被告人内藤について

一、同被告人は昭和三六年二月二四日逮捕されて以来、司法警察員に対する各供述調書、(昭36・2・28付同年3・2付)検察官に対する供述調書(同月14日付)においては、いずれも本件犯行を否認し、検察官に対する同月二七日付供述調書で始めて強取の点を除いて本件犯行は前記矢野清一らと共に行つた旨自白し、次で第五回公判(昭36・4・18)においても右自白を維持していたが、第一一回公判(昭36・10・19)に至り前言を翻し自分は本件事件に何らの関係はない旨否認するに至つた。そしてその後最終公判期日に至るまで、二月七日頃同被告人の内妻松原喜代子が階段から落ちて腰を打ち動けなくなつたのでその後は同女の身の回りの世話をしていた、その間一週間位は毎日ハイヤーに同女を乗せて病院に連れて行つた旨供述している。しかしながら右病院に連れて行つた時刻については午前中のことも昼からのこともあり、二月一二日も午前中か午後からか記憶しない旨自認している。しかして前記捜査機関に対する否認に際しては右内妻の面倒乃至附添の点については一言をも言及するところがない。

従つて同被告人が当公判廷で述べるアリバイの供述自体極めて曖昧でありその供述するところも至つて一貫性を欠くものと言わざるを得ないが、証人松原喜代子の供述(昭37・9・12)及び同被告人の大家である証人福間健吉の供述(昭37・9・12)、日の丸タクシー株式会社従業員証人長村正幸の供述(昭37・9・12第一回)日の丸自動車株式会社作成の自動車運転日報によれば、同被告人が内妻松原喜代子を日の丸タクシーの自動車に乗せ、福間健吉と共に二月一二日午前一〇時二〇分頃河合外科医院に連れて行つたことは一見明らかで、同被告人のアリバイの事実は容易に立証されたかの如き感があるが、しかしながら右病院の医師証人河合十五平の供述(昭37・9・12)によれば、松原喜代子が右河合外科医院で診察をうけたのは二月一一日、二月一三日、二月一六日の三回であることが明らかであり、前記証人長村正幸も第二回の証人(昭37・12・26)として前回の証言は誤りで、二月一二日に同被告人の依頼により乗客三名を乗せ河合外科医院に赴いたことは調査の結果の範囲では判明しなかつた。運転日報の二月一二日の欄は松原喜代子の願いにより適当に埋めたものである旨供述するに至つた。次で松原喜代子の供述について検討するに、同女の司法警察員に対する供述調書(昭36・3・3付)によれば同女は昭和三六年二月七日の夕刻、勤め先のニユー森永の階段から落ちて二月一六日まで休んでいた旨供述しているに拘らず、当公判廷においては、階段から落ちたのは二回あり、内一回は二月七日頃自宅の階段より、内一回は同被告人が逮捕された後ニユー森永の階段より落ちた旨二月七日より同月一六日までの炊事、身の回りの世話は同被告人及び武藤育代にして貰つた旨、供述するに至つた、が右両供述の間に著しい相違があるのみならず、右証言内容においても、同被告人が逮捕されたのが昭和三六年二月二四日であることは本件記録に徴し明らかなところであるから、同女が司法警察員に対して供述した昭和三六年三月三日にニユー森永の階段から落ちた件と自宅階段から落ちた件を記憶違いするとは考えられず、且つ右供述調書においては、二月七日より同月一六日までの間毎日前記河合外科医院に同被告人の附添で通院した点に何ら言及することなく、却つてその間における炊事身の回りの世話は、当時同宿していた友人の武藤育代にして貰つた旨述べ、武藤育代の司法巡査に対する供述調書(昭30・3・2付)も全くこれに符合することからすると、同女の前記証言は遽かに措信し難いものがあるといわなければならない。しかして右証言に略符合する証人福間健吉の証言も前記証人河合十五平及び証人長村正幸(昭37・12・22)の各供述等に照し措信し難いこと右と同様である。

二、ところで同被告人に対しても前記岡田つゆ子の供述等のみによつて同被告人が犯人であると断定することが危険であることは論を俟たないところであるが、同被告人は前述の如く検察官に対する供述調書(昭36・3・27付)において及び第五回公判廷において本件犯行を自白しているのでこれを検討するに、

右検察官に対して自白するに至るまでの同被告人の供述はその都度異なり終始一貫するところがなく、極めて掴み処のないものであつたが、右自白するに至つた理由として「何とか逃れ度いという気持と、一緒にやつた矢野と拘置所内で顔を合わせた時、同人より検事の前ではうまくやれ」等の連絡をうけていたので、最後まで頑張つていたが、結局起訴されてしまつたので、何時までも嘘を言つても仕方がないと考え、同時に親方になつてやつと矢野が起訴されずに釈放されたので、こんな馬鹿なことはないと思い正直に供述する気になつた」旨供述し、同被告人の希望として「矢野をもう一度よく調べてくれ、同人が知らないと言うなら私が対決してでも判然りさせる」旨強調している。右自白するに至つた理由についてこれを納得できない事由を見出し難いのみならず、その供述内容に徴しても、朝、新岐阜駅に至つた時から本件犯行を終了するまでの行動を詳細、具体的に供述している他、岡田つゆ子の供述内容とを符合するところが多いこと等を考え併すと、右自白は自己の体験に基づく供述として極めて証拠価値の高いものといわなければならない。

尤も同被告人は第一一回公判廷において、前に自白したのは真犯人である矢野を逮捕して貰うための方便として自白したに過ぎない旨強弁するが同人を真犯人である旨強調する割には右公判廷以後における供述にこれを裏付ける具体性を見出し難く、検察官に対しては兎も角、第五回公判廷において本件犯行を自白した理由を理解するのに苦しむところである。

たゞ右検察官に対する自白調書において、共犯者の氏名として挙げるところはいずれも前記矢野清一の身内のものであることが本件記録に徴し窺われるところであるが、同被告人が二月一二日午前九時四〇分頃新岐阜駅北側待合室の北側ミユージツクボツクス附近で被告人裴甲錚の身内であると思料される川本一晃、原貴久男及び長谷川某らと一緒に居たことは前記後藤新十郎作成の捜査報告書により明らかであり、更に同日午後三時頃岐阜市日ノ出町二丁目日活映画館前附近路上で、右同人ら及び梅村某らと共にデンスケ賭博を開張していたことが安藤秀逸作成の捜査報告書(昭36・2・12付)によつて推認されることからすると、その間被告人内藤は右同人らとも行動を共にしていたのではないかとも想像されるので、右検察官に対する供述調書中明らかに同被告人が指摘する矢野以外の共犯者の氏名について同被告人が自己の知るところをすべて正直に供述しているか否かについて一沫の不安がないではないが、いずれにしよ同被告人が本件犯行の犯人の一人であることは動かし難い事実であるといわなければならない。

だとすると同被告人のアリバイの主張は到底採用し難い。

第八、強盗の訴因を恐喝罪に認定した理由について、

検察官は被告人内藤らの判示第三の所為が強盗である旨主張する。しかしながら他人に暴行を加えて財物を奪取した場合に、それが恐喝罪に該当するか強盗罪に該当するかは、その暴行又は脅迫が社会通念上一般に被害者の反抗を抑圧するに足る程度のものであるかどうかという客観的基準によつて決せられるべきであつて、具体的事案における被害者の主観を基準として決すべきではない。しかして右にいう客観的基準によるとは固より当時の具体的事情を考慮に入れないという意味ではなく、被害者の性別、年令、犯行場所犯行時刻等の具体的事情をも考慮に入れた上決すべきことは言を俟たない。

そこで本件についてこれを考えてみるのに、前述した如く、本件において加えられた暴行の程度は被告人内藤が被害者岡田つゆ子の片腕を掴んでポプラの木に押しつけるようにし、他の数名の者がそれを取囲むようになつて、内一名が同女の所持していた手提袋の下を掴み、内一名が同袋の口を開けてその中から蟇口一個を奪取したというのである固よりその際における同女の前記精神的、肉体的苦痛な状態をも考慮すれば、同女が生れて始めての経験として右暴行により極度に畏怖、困惑したであろうこと、或いは同女が主観的には抗拒不能の状態にあつたかもしれないことはこれを推認するに難くない。しかしながら右犯行場所は笠松駅下りホーム上であり、犯行時刻は午前一一時頃であつて他人より極めて認められ易い状況下にあり、現に山之内幸栄、及び東島安子の各司法巡査に対する供述調書によれば、右犯行当時岡田つけ子が腰かけていたベンチには右山之内幸栄とその友人徳重初子も腰を掛けており、右東島安子もその時ベンチの後ろ側で犯人らが岡田つゆ子にデンスケ賭博を勧めていたことを目撃していたことが認められるのである。かかる状況下においては同女がその場を逃れ、或いは他に救を求めることは極めて容易なことであり、同女の右精何的、肉体的苦痛な状態を考慮に入れても本件暴行の程度を以て強盗罪にいう暴行脅迫に該当するとなすことは当を得ない。

判示第三認定の如く恐喝の手段として岡田つゆ子をして畏怖困惑ならしめた程度の暴行であると考えるのが相当であつて、結局本件は判示第三認定の如く右暴行により同女が畏怖困惑したのに乗じて財物を奪取したもので恐喝罪に該当するものといわなければならない。

(裁判官 重富純和)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例